糸洲の体育用空手は兵士を育成する

歴史

ちょっと過激なタイトルになっていますが、読んでいただければ分かります。

糸洲安恒は、なぜ体育用に唐手を創作、改変していったのでしょうか。

自ら進んで取り組んでいたのでしょうか。

糸洲のナイハンチシリーズのあとがきとして、ちょっと書いてみたいと思います。

 

糸洲の生きていた時代

糸洲安恒
糸洲安恒 ウィキペディアより

糸洲が生きていた時代。

それは、琉球藩が沖縄県へと変わったときであり、

幕府が滅び、日本が近代国家として新たに始動し始め、

軍事国家として、大きく動き出した時代でした。

 

糸洲安恒の歴史を簡単に振り返ってみましょう。

  • 1831年、首里儀保村の士族の家に生まれる。
  • 1855年~1857年で、科挙の試験に合格。このころ松村宗棍に師事したといわれている。
  • 1866年頃、再び松村のところに戻り修行開始。(一度松村のところを出て行き、那覇手の長浜に師事。長浜の死後、再び戻ったのが35歳過ぎと言われている。)この年は、最後の冊封史来琉。翌1867年、祝賀会の席で、武芸十項目が披露される。
  • 1868年、明治新政府樹立。
  • 1872年、琉球藩設置。
  • 1879年、沖縄県設置。(1872年~1879年までの一連の沖縄関係の騒動を琉球処分と呼ぶ)この頃自宅で唐手を指導し始めたといわれている。
  • 1881年頃、本部朝勇、朝基に唐手指導。
  • 1885年、沖縄県庁退職。
  • 1899年、知花朝信入門。
  • 1903年、摩文仁賢和入門。
  • 1905年、沖縄師範学校で唐手教師の嘱託となりを指導。
  • 1915年、84歳で死去。

見ても分かるとおり、明治維新のど真ん中に生きています。

ということで、ここで重要なのは、1868年前後です。

幕藩体制が終わり、明治政府が樹立。

1871年、鹿児島県(元薩摩藩)の管轄(従属国)だった琉球国は、1872年琉球藩となり、さらに1879年、半ば強引に沖縄県の設置がなされました(琉球処分と言われています)。

明治新政府は、欧米列強による日本の植民地化を防ぐため、と言う名目で、できるだけ早く近代化し、富国強兵を達成しようとしていました。

その一貫として、1898年徴兵令実施。

ですが、ここ沖縄では、実際には1890年から志願兵の募集は開始されていました。

そのとき50名を越える応募の中から合格したのは、なんとたったの3名。

それが、花城長茂、屋部憲通、久手堅憲由

3名とも、糸洲の許で幼少の頃より唐手の指導を受けた者達です。

このことが、軍部や沖縄県の役人に、唐手の存在に興味関心を持たせるきっかけになったことは十分に考えられます。

 

時代にマッチした糸洲の体育唐手

さて、ここで言う「体育」ですが、

明治時代の体育という概念は、現代で言ういわゆるスポーツではなく、軍隊の徴兵制度に対するものであり、その目的として心身の鍛錬が重要視され、兵士育成としての軍事教練という意味合いが強かったと思います。

糸洲の有名な「糸洲十訓」を読んでも、軍事教練としての体育目的で、唐手を空手化していったことが良く分かる文章があります。

唐手は専一に筋骨を強(く)し、体を鉄石の如く凝(り)堅め、又、手足を鎗鋒(そうほう)に代用する目的とするものなれば、自然と勇武の気象を発揮せしむ。就ては、小学校時代より練習致させ候はば、他日兵士に充るの時、他の諸芸に応用するの便利を得て、前途軍人社会の一助にも可相成と存候。

右十ヶ條の旨意を以て、師範中学校に於て練習致させ、前途師範を卒業各地方学校へ教鞭を採るの際には、細敷御示論各地方小学校に於て精密教授致させ候はば、十年以内には全国一般へ流布致し、本県人民の為而己(のみ)ならず、軍人社会の一助にも相成可申哉と筆記して備二高覧一候也。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』糸洲安恒より

糸洲の考える空手が、明治という新時代の要請に図らずともマッチし、志願兵の合格結果から、兵士の軍事教練として適合することが実証されました。

そして、この空手は、学校体育としても十分に活用していけるという、糸洲の実証実績から、当時の軍部、沖縄県学務課に、猛プッシュしたものだと考えられます。

まさに時代にピッタリとマッチした、最高の形で、空手をプレゼンできたのではないでしょうか。

その甲斐あって、小中学校に、(軍事教練としての)体育空手が採用されることになります。

それでは、糸洲の空手は学校体育として簡単に採用されたのか?というと、そうでもなかったようです。

私のおすすめブログ「本部流のブログ」から、

学校教育として正課への採用を推進していたとき、沖縄県学務課の指示により、唐手の技法等を改変せざるを得なかった、としています。

https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12460491043.html

また別の記事では、学務課からの批判を回避すべく、試行錯誤しながらピンアンを創作したことや、また、その考え方から、他の古伝の型も改変していったのではないか、としています。

https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12457606198.html

本部流のブログでは、歴史的背景を元に、多数の資料で裏づけをとりつつ論を進めています。そこから得られた管理人の考察は、想像的でありながらも学術的要素も含んでおり、一考に価します。

非常に価値の高い内容だと私は思います。

 

糸洲は嬉々として唐手改変に取り組んだ

さて、「本部流のブログ」の考察では、学校体育の正科として採用される為に、糸洲は唐手をいろいろと改変せざるを得なかった、と言う感じで書かれていますが、

私はあくまでも糸洲が積極的に体育の型へと改変を望んだ、と考えています。

望んでいたからこそ、晩年に至るまで精力的に指導を出来たと思いますし、もし改変に少しでも疑問があれば、何らかの後悔や、自責の念などがあってもおかしくありません。

たとえば、信頼できる弟子や、仲間内の誰かや、もしくは著書、日記などに、そういったことが一言でも触れていれば、と思うのです。

ですが、そういった後悔の念などどこにもなく、むしろやりきった感があるように思えます。

左の写真は、彼の写真として良く使われているものですが、晩年かそれに近いものと言われています。

この顔立ちを見ても、不満でやるせない感じは見られませんよね。

糸洲の気質、性格、唐手への取り組み方、正科採用への意欲等、どれをとっても、かなり精力的です。

少なく見積もって、国から命令を受けてやらされている、という姿勢であれば、晩年まで空手を続けているでしょうか。

明治維新(沖縄では琉球処分ですが)という、新時代の追い風(?)が吹いたこのとき、糸洲にとって最大のチャンスが訪れたと言っていいでしょう。

その後、彼の作った空手が日本全国各地で行われることになりました。

今や彼の空手は世界中で行われ、糸洲といえば空手中興の祖、レジェンドとして、世界中の空手家達に知られています。彼は歴史に名を残したのです。

ここまでのことを想定していたとは思いませんが、少なくとも日本全国で彼の空手が学校教育として採用され、または軍部で体育として採用され、自分の作った理念と共に自分の創作した空手が世に残るのですから、彼としては大変喜ばしいことだったでしょう。

国や学務課からの要請を受けて空手を改変創作していたとき、彼は嬉々として取り組んでいたのではないかと私は思ってしまいます。

 

空手の議論は今に始まったことではない

ピンアンとナイハンチ2.0は、糸洲の創作、改変によるものですから、鍛錬型として取り組むほうが、取り組む方としても迷いが無く、分かりやすいです。しかも、その恩恵をすぐに受けることが出来ます。

私はそのように考えますし、自分自身としても実証してきたので、今でもこの通りに自主トレをしています。

ピンアンと糸洲ナイハンチに関して、武術としての分解を考えることはしません。

ですが、他の型、パッサイやクーサンクー、五十四歩などは、武術として認識しています。

前回の記事では、「知花公相君」という記事を引用し、古伝の型すら糸洲は改変した可能性を指摘しました。

糸洲系のパッサイやクーサンクーが、もしかしたら「糸洲改」であった場合、本来の型はどんな立ち方でどんな動作になっていたのでしょうか。

糸洲が伝えた空手は全て、体育用に改変してしまった空手だけなのでしょうか。

本部朝勇、宮城長順、摩文仁賢和、花城長茂等が集っていた「沖縄唐手研究倶楽部」なるものがありましたが、もうこの時代には、糸洲の空手云々ではなく、当時知られていた唐手そのものが、伝承、技法、歴史、から見ていったいどういったものなのか?という、疑問が既にあったのでしょう。

古伝の型すらも、多数説があり、どれが本物か、どれが正しいのか、全く分からなかった、と言うことだと思います。

つまり、空手についての議論は、今に始まったことではないということです。

ただ、はっきりと分かっていることは、ピンアンと、ナイハンチは、糸洲が創作、改変した物が主流になっている、ということですので、これは鍛錬型として取り組むほうが良い、とここで私は結論付けます。

まとめ

空手の記事に関するまとめ

簡単にまとめると、

時代がちょうど良かった、と言うことになりますね。

軍事国家として新たに動き出した日本と、

兵士の訓練に最適な体育の開発。

国民皆兵に向けての体育教育の重要性。

どれをとっても、空手成立に申し分ない追い風が吹いています。

それにちょうど乗っかれたのが糸洲だった、というわけです。

糸洲に時代を読むセンスがあったというわけではないでしょう。

そう考えても、たまたまそうだった、だけのように思います。

かくして、彼は後世まで名を残すこととなりました。

なんだかディスってる感がありますが、そんなことはありません。

短期間で体を鍛え上げ、さらに古伝の型まで短期間で身に付けられるようになってしまう、素晴らしい型、ピンアン、ナイハンチ2.0(あえて2.0と書かせてください)を開発した偉大な空手家、糸洲安恒。

かなり長くなりました糸洲シリーズですが、

他では描かれていないような内容でお送りできたと思っています。

楽しんでいただけたでしょうか。

これにて糸洲シリーズは終了です。