
糸洲シリーズが続いておりますが、 ちょっと気になったことを書いて見ます。それはつまり、唐手から空手へ。糸洲は空手を作った人物である、ということです。
それではどうぞ。
ピンアン、ナイハンチには実戦的分解は意味が無い

「糸洲のナイハンチは凄かった!?」シリーズでの私の検証では、糸洲のナイハンチとピンアンは、明らかに体育としての空手であり、武術的な要素は考えない、という結論に至りました。
ですが、手(ティー)もしくは唐手を体育にした(空手)理由は、前回までの記事でも書いたように、身体を頑強壮健に鍛え上げ、運動能力を高めるツールとして創作改変したかったためです。
これはもちろん、糸洲の稽古経験と研究から、そういった結論に達したと私は思っています。
糸洲作の空手(ピンアン・ナイハンチ)を稽古した場合、その効果はかなり大きく、糸洲の弟子3名だけが志願兵に合格。のちに入門する弟子達も、空手の歴史に名を残す優秀な空手家ばかり、という歴史的事実があります。
こういったことから、糸洲の考案した空手に取り組むと、身体の鍛錬と運動能力の向上に絶大な効果を発揮する、と言ってもいいかもしれません。
糸洲は唐手を空手へと変えた。
それは、武術から体育へと、その存在意義すらも明確に改変させた。
まさに唐手に革命を起こした、と言ってもいいと思います。
ですので、
ピンアンやナイハンチに、武術としての側面を求めることは、実は見当違いであり、
また糸洲自身もそのように考えて作っていない、
と私は考えています。
もちろん、元々は古伝の唐手型からの抜粋なので、動作要領そのものは、武術として使えるものばかりです。
ですが、武術として使うのであれば、ピンアンやナイハンチを持ち出して考えるのではなく、古伝の型(パッサイやクーサンクー、五十四歩)で考えればよいわけです。
ピンアンやナイハンチは、あくまで身体鍛錬と運動能力の向上を目指したもので、これを徹底的に行うことで、身体改造、つまり自らの体のバージョンアップを狙うことを目的とします。
その上で古伝の型を行えば、すでに体も鍛え上げられ運動能力も向上しているため、より短期間で古伝の型も身に付けられる、と私は思っていますし、糸洲もそのように考えていたと思います。
と、こんなことを考えていたら、また面白い記事を見つけました。
知花公相君

私の超お勧めブログ「本部流のブログ」ですが、以下リンクからご一読ください。
地花公相君 https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12203451576.html
これはとても興味深い内容です。
まず知花朝信の父、知花朝章という人物がでてきます。
この人が教えたクーサンクー(公相君)は、現在小林流に多く伝わっているクーサンクーとはまったく違うところがある、と記事にはあります。
それが実は、猫足立ち。
猫足立ちとか、浮足立ちと言われているこの立ち方ですが、
現在のクーサンクー(公相君)では、通常この立ち方はよく出てきますし、またこの立ち方は、基本的なものとして、皆さんも教わってきたと思います。
ですが、知花公相君では、猫足立ちではなく、四股立ち(ナイハンチ立ち)である、といいます。
ここでいう、四股立ち(ナイハンチ立ち)とは、松村系統の古伝のナイハンチの立ち方のことで、現在伝わる内股のナイハンチ立ちとは違い、騎馬立ちや、もしくは四股立ちに近い立ち方のことです。
本部朝基は、「ナイハンチの型の足腰の在り方が、唐手の基本である」とか、「ナイハンチの型を左右、いずれかに捻ったものが実戦の足立」と語っているが、それは彼が若年時代に習った古流首里手はナイハンチ立ち、もしくはそれを左右に捻った立ち方が主体だったからであろう。
知花公相君と古流首里手の立ち方 「本部流のブログ」より
つまり、基本の立ち方がこの四股立ちのような騎馬立ちのような「ナイハンチ立ち」と呼ばれるものである、と言うことです。
知花殿内は首里の上級士族である。したがって、この知花公相君は、来歴のはっきり分かる、数少ない「非糸洲系統」の首里手の型なのである。
糸洲先生はピンアンを創作され、また旧来の型にも様々な改変を行ったと言われる。しかし、具体的にどのような改変をされたのか、詳しくは分かっていない。
貫手を正拳に改めたとか、上段突きを中段突きに改めたとか、いろいろな説があるが、ひょっとして「猫足立ち」も糸洲先生以降、型において使用頻度が著しく増えたのだろうか。
知花公相君 「本部流のブログ」より
もし、猫足立ちが糸洲以降に増えたとしたら、これはナイハンチ2.0と同様に、身体の鍛錬と運動能力の向上を目指し、古伝の唐手型をも創作改変したと、私は考えます。
その理由として考えられることは、
指導してきた弟子達の結果を見て、自らの指導方針は正しかったと、大いに自信をつけた事がまず一つ挙げられるかと思います。
古伝の型を改変するに当たり、危険な技法である目潰しや金的蹴りは排除されたことは容易に想像できます。
そして、体育的な方向へと変化させるべく、鍛錬の要素を多く取り入れようとしたのではないでしょうか。
立ち方を改変することは、ナイハンチのときに既に行いました。
下肢を締め上げることにより、立ち方に鍛練的要素を加えることで、より体育的な鍛錬型としてのナイハンチを完成させました。
これと同様なプロセスで考えた場合、パッサイ、クーサンクーなどの古伝の型で行われていた「ナイハンチ立ち」の部分を、立ち方を厳しくする方向で検討した場合、より軸足にかかる負担が強大な猫足立ちを創作し、取り入れたと考えられます。
猫足立ちは、低くすればするほど、時間が長ければ長いほど、空気椅子並みに筋トレ化します。
古伝の型にこの猫足立ちを取り入れ、低い姿勢で突き受け蹴り等の動作を素早く行えば、筋トレ兼瞬発力養成体操が出来上がります。
もしくは、糸洲自身が弟子達に教えているうちに考え付き、段々とその方向性を持って指導するようになってきた、と考えても自然です。
唐手家としての糸洲は、当時まれに見る突き手であり、孟宗竹を握りつぶすほどの鍛錬をする努力家です。動きは鈍重で「うすのろ」だったようですが、それだけは松村も認めていたようです。
指導する弟子達がどんどん上達していく様子を見て、ピンアン、ナイハンチだけでなく、古伝の型まで鍛錬型として改変しようと考えてしまうところがあったかもしれません。
糸洲の性格や、弟子達の指導結果を鑑みると、ナイハンチ立ちから猫足立ちへの改変は、糸洲から始まった可能性は非常に高いと思った次第です。
糸洲の唐手は空手へと変貌した

先ほど引用しましたが、本部朝基が「ナイハンチの型の足腰の在り方が、唐手の基本である」とか、「ナイハンチの型を左右、いずれかに捻ったものが実戦の足立」と語っているところがありました。
これを糸洲のナイハンチでも同じように行ってみると、前足の踵を浮かせるだけで、猫足立ちが出来てしまいます。
唐手の基本とされていた「ナイハンチの型の足腰の在り方」ですが、糸洲はこれを「糸洲ナイハンチの足腰の在り方」へと大きく改変したことになります。
つまり、「足のヒラをスボメて内側に締付ける様に力を入れること」が、空手の基本であり、「この糸洲ナイハンチの型を左右、いずれかに捻ったものが実戦の足立」としてしまった・・・。
そして、糸洲の「唐手」は、現在まで続く「空手」となったのです。
現在もそんな感じの理論として、猫足立ちは実戦の立ち方である、としている流派も存在しますね。
それはいったい、どのように考え、理解すればよいのでしょうか?
この私の説からすれば、全く意味の無いことになってしまいます。 少し難しいように思いますが・・・。