糸洲のナイハンチシリーズも、遂に最終回です。
どういった過程で結論まで持っていくのか?
それではどうぞお楽しみください。
糸洲のナイハンチは下肢を締め上げるっ!!

まず糸洲のナイハンチのサンチン立ちですが、これは本部朝基の「私の唐手術」にもあるとおり、
「足のヒラをスボメて、内側に締付ける様に力を入れること」
です。
蛇足ですが、この後の文章で、
「強いて力を入れんが為に、実際とはかけはなれた型を世にのこすことは、余り感心出来ないと思う」と続きます。
本部朝基は兄の朝勇と共に、糸洲から習っていた為、この糸洲ナイハンチのやり方は知っていたということでしょう。
朝基自身は、兄の朝勇が習っていて、自分は見ていただけだ、と証言していますが、見ていただけにしては詳しく知っていますよね。
松村とは全く違うその立ち方を、朝基は細かく解説し、かなりこっぴどく批判していますから。
さて、私の見解ですが、前回の記事でも書いたように、
知花のナイハンチ分解写真を見ても、立ち方がいわゆる姑娘歩とは見えず、力が入っているように見えること。知花のナイハンチ動画を見ても、力強く踏み下ろしているところがあることなどから、
姑娘歩の使い方ではないことは明白となりました。
まさに、朝基の指摘どおり、「足のヒラをスボメて、内側に締付ける様に力を入れること」をそのまま行っているようです。
ということで、糸洲のナイハンチは、足は内側に締め上げるように力を入れて立っている、と結論付けても良いかと思っています。
現在の剛柔流のサンチン立ちは、内にも外にも力を入れて足全体を徹底的に締め上げる感じですが、糸洲の立ち方は、内側に締め上げるように力を入れている、と言うことです。
ちょっと似ているかな、っていう感じですね。
ちなみにナイハンチには剛柔流のような呼吸法はありません。
では糸洲の下肢を締め上げるナイハンチはいつ頃始められたのでしょうか。
糸洲ナイハンチの誕生
松村のところを一度出て行き、那覇手の長浜に師事。長浜の死後、再び松村のところに戻りますが、そのとき35歳過ぎと言われています。
糸洲が生まれたのは1831年ですので、35歳なら1866年(江戸末期・慶応2年)ということになります。
自宅で教え始めるのが1879年(明治12年)ですので、この66年~79年の15年間に、ピンアンとともにナイハンチも改変した可能性があります。
15年もあれば、研究熱心で頭も良かった糸洲ですから、ナイハンチプロトタイプは出来ていたと思われます。
たぶん初期のピンアン(チャンナンか?)も、この時期にはある程度完成しており、糸洲の初期の弟子達にも指導していたと思われます。以下が参考です。
引用
糸洲安恒の初期弟子の一人である本部朝基によれば、もともとピンアンはチャンナンと呼ばれて挙動も少し違っていたという[3]。この点について、本部が晩年の糸洲に問いただしたところ、「その頃とは型は多少違つて居るが、今では学生のやつたあの通りの型に決定して居る。名称もみなが平安(ピンアン)がよいといふから、若い者達の意見通りにそうしたのだ」[4]と答えたという。 本部(明治3年生)が糸洲に師事したのは12歳(数え年)からであるから、チャンナンは明治10年代にはすでに存在していたことになる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
私の考えでは、たぶんですが、糸洲ナイハンチは、ピンアンよりも先に出来上がっていたと思っています。
おそらく、長濱と一緒にいた時代に共に開発したのではないかと推測しています。
長濱と那覇で見たさまざまな唐手(中国武術)を研究し、そのとき下肢を締め上げ鍛える、という今まで首里手では見たことがなかった要素を新たに加えること考え、騎馬立ちが多く動作が少ないナイハンチにそれを上手く取り入れ、糸洲のナイハンチは開発されていったのではないでしょうか。
糸洲ナイハンチ完成のとき
長濱は「松村先生とは反対に専ら力を出し、身体を堅める方に専念して、稽古して居られた」(本部朝基と琉球カラテ 岩井虎伯著 愛隆堂 P.19より)とあり、動きは鈍重であったが体格に優れていた糸洲(体重90kg、孟宗竹を握りつぶす)と、同じような考え方をしていたであろうと想像しています。
長濱も、鍛錬型としてのナイハンチの開発には賛同していたと考えても、無理はないように思います。
そして長濱の死後、遺言どおり松村の許へ戻り、そこで「実際の場合」を考えた「自由と敏活」な動作を研究したと思います。
松村は、「力の入れ方及び型の運用に意を注いでおられた」(本部朝基と琉球カラテ 岩井虎伯著 愛隆堂 P.18より)とあります。
古伝の型であるパッサイやクーサンクーなどから考えると、歩法を伴った無理の無い自然な力の出し方を強調して指導していたと思われます。
糸洲はその逆で、腕力ばかりに頼っていたのでしょう。上半身の力が強すぎれば、それにつれて下肢も安定させようと、力を入れて居つくようになります。
これでは動きも鈍重にならざるを得ません。
このとき糸洲は、歩法を伴った敏活な動きを研究し、ある程度は素早く動けるようになったのかもしれません。
しかし、古伝の型は、どちらかに偏った動作が多く、難しい動作もあるため、修得には長い年月を必要とします。
そこで糸洲は、古伝の型から一部抜粋し、前後左右に満遍なく演武線とることで偏りをなくし、難しい動作は排除したり、または数多く入れることで身に付けやすくするといった工夫を取り入れた、新しい型の開発をしました。
それが「ピンアン」(開発当時はチャンナン)です。
ピンアン開発と同時に、糸洲のナイハンチにも同様の考えを取り入れようと試みます。
ナイハンチは、歩を止めてから受けや突きを繰り出しますから(伝統派では踏みつけた瞬間に繰り出しますが、ここでは知花の沖縄小林流空手を例にしています)、これはつまり、歩の移動を伴わない、腕だけの攻防を意味します。
歩法を伴った動作が無いので、松村のように敏活に素早く行うと、腕に掛かる負荷がかなり大きくなることが分かります。
つまり、下肢は締め上げることで鍛え上げ、受けや突きは素早く行うことで、腕の筋力や瞬発力もかなり鍛え上げられると、糸洲は考えました。
こうして鍛錬型のナイハンチである「糸洲のナイハンチ」が出来上がっていったのではないかと思っています。
以上は全て、私の想像によるものです。(このように私は勝手に妄想し楽しんでいるわけです)
糸洲ナイハンチ「ナイハンチ2.0」

以上のような過程から、糸洲のナイハンチが作られていく(と私は勝手に妄想している)のですが、この糸洲のナイハンチの有効性については、思わぬ形で証明されていきます。
糸洲が自宅で唐手を教え始めたときの初期の弟子達ですが、
屋部憲通、花城長茂、久手堅憲由などが知られています。
この3名ですが、こんなエピソードがあります。
沖縄県で徴兵令が実施されたのは明治31年(1898年)ですが、1890年(明治23年)から志願は出来たそうです。この時、応募者50名超のうち、合格したのはわずか3名。屋部憲通、花城長茂、久手堅憲由で、彼らはいずれも糸洲の門下生だった、ということで、軍部や県役所は、唐手に興味をもつようになったと言われています。参考元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%9F%8E%E9%95%B7%E8%8C%82
これには糸洲も驚き、また歓喜したのではないでしょうか。
まさに、自分の教える唐手は間違っていなかった、と確信を深めたでしょう。
糸洲が自宅で唐手を教え始めたのが1879年(明治12年)と言われています。
弟子3名が1890年の志願兵に応募し合格したとき、糸洲59歳。
この79年~90年までの約11年の間に、指導してきたこの若い弟子達3名が、糸洲の考える唐手を見事結実させたと言えます。
そして、屋部、花城、久手堅の3名が、それぞれ実力をつけ指導者となったのち、
1899年(明治32年)小林流開祖である、知花朝信が入門。
そしてその後、摩文仁賢和(明治36年入門、糸東流開祖)、徳田安文、大城朝恕、遠山寛賢、城間真繁など、空手の歴史に燦然と輝く、優れた空手家達を次々と輩出しました。
これらの歴史的事実を踏まえ考えると、つまり糸洲のナイハンチとは、
取り組む者全てに頑強壮健な身体と運動能力の向上を約束する、
当時としては革新的な身体改造法だった、
という結論に、私は勝手に至ってしまったのです。
私はこれを、従来のナイハンチを超えた進化形ナイハンチ、「ナイハンチ2.0」と考え、自分で勝手に日夜稽古に励んでいるのであります。
まとめ

結論は、
糸洲ナイハンチは、ナイハンチを超えた「ナイハンチ2.0」である。
と言うことです。
いかがでしたでしょうか。
遂に「ナイハンチ2.0」の全貌に行き着きました。
とても長かったですね。
途中でやめようかと思ったくらいです。
書籍やネット検索で調べられるだけ調べた歴史的事実と、
私の妄想が生み出した一大スペクタクル(笑)。
糸洲のナイハンチの謎を追うことで、
空手の歴史を振り返ることになってしまいました。
いろいろと勉強できて、良かったと思っています。
皆さんもお楽しみいただけたでしょうか?
それでは次回。