今回は知花朝信を取り上げ、ナイハンチのサンチン立ちについての問題に迫ってみたいと思います。
糸洲のナイハンチの立ち方は、姑娘歩のようにするのか、それとも違うのか?
検証していきます。
小林流開祖・地花朝信

知花朝信は、糸洲安恒の門下生として、1899年に15歳で入門しました。
いろいろと細かい出生や生い立ちについては、ウィキペディアでご覧ください。↓↓

知花朝信は糸洲の後期の弟子です。
1899年、知花が入門したとき、糸洲は68歳でした。
知花は、体育と武術の両方の空手を学んだ最後の世代と言われています。
68歳というと、私が若い頃は、おじいさんというイメージが強かったですが、現在の60代の先輩方を見ていると、今も現役で空手を指導し、組手も普通に行っています。
いやいや、まだまだ衰え知らずの強い年代です。
むしろ、体力が落ちている分、技術が向上しており、学ぶべきところがたくさんあります。
68歳の糸洲安恒も、たぶんそんな人だったのではないでしょうか。
さて、私はこんな雑誌を持っています。

今は無き福昌堂から発刊されていた「月刊空手道 2007年8月号」です。
この記事の中に、知花に関するエピソードが載っているので、重要と思われる部分を抜粋引用します。
「美しい技は切れる」「強い技は美しい」というのが口癖であった。型を寸分の狂いもなく修得し、その中でさらに技を練り、磨いていくことが大切なのだと強調した。(中略) また朝信の蹴りには秘密があったそうだ。普通は上足底で蹴る。しかし、朝信は親指の先(人差し指と重ね合わせ、補強する)で蹴る“足先蹴り”を用いていた。それがどれほどの威力なのか。一説には七分(2.12センチ)の杉板2枚を軽く割って見せたことがあるという。
月刊空手道 2007年8月号 P10、上から2段目の文
また60歳を過ぎた頃、こんなエピソードもある。仲里周五郎の話である。のあるとき直径二寸(約6センチ)ほどの真竹を持ってきて、これを割って見ろと朝信は言う。仲里は試してみたが、とうてい割れるものではない。その竹を、朝信はいとも簡単に握りつぶしてみせたという。「先生の握力はたいへんなものでした。徴兵検査のとき、握力計の水銀が上から噴出したそうです」
月刊空手道 2007年8月号 P10、上から2段目と3段目の文。
他にも、米軍基地での空手演武を行ったとき、屈強なレスリング経験者を舞台に上げ、タックルしてきた相手の腕を前腕で打ち払ったら、叩かれた兵士の腕は瞬く間に紫色にはれ上がったそうです。
「肘から前を鉄のようにしなさい。鍛えていないと、どんなに太くても腕は木の固さ。しかし、鍛えていると細くても鉄の固さになる」と言っていました。
月刊空手道 2007年8月号 P15、上段の文
こういったエピソードを見ていると、とにかく部位鍛錬が凄まじく、めちゃくちゃ鍛えまくっていた、という印象を受けます。
腕や拳、足先にいたるまで、凶器と化していた、という事実。
まさに五体の武器化、ですね。
糸洲・知花両者の違い

知花朝信の型に関していえば、「Web第三文明」と言うサイトに、以下のような記事があります。
知花自身が戦後まもない1948年に結成し初代会長を務めた「沖縄小林流空手道協会」の、現4代目会長を務める宮城驍(みやぎ・たけし 1935-)は小林流空手の特徴についてこう語る。
「知花先生の教えは、手足を伸ばしてのびのびとやりなさいというもので、自然の動きを強調されていました。美しい形にこそ力がこもるとの意味もありまして、さらに瞬発力を重視するのも小林流の特徴と思います。」
Web第三文明 「沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流 第18回 しょうりん流②――知花朝信の開いた小林流(上)」
知花の教えは、
手足を伸ばしてのびのびとやる、自然の動きを強調する、瞬発力を重視する
とあります。
これに対して、糸洲は間逆であったと思われる話があります。
糸洲が松村の許を出て行ったいきさつが、本部朝基著の「私の唐手術」に書いてあります。
以下、引用します。
糸洲先生は鈍重で、(松村)先生の気に入らなかった。そこで熱心に稽古をするけれども、肝心の師の方でおろそかであったので、遂に退いて那覇の長濱先生の許へ通うことになった。(中略)処が(長濱)先生は松村先生とは反対に専ら力を出し、身体を堅める方に専念して、稽古をして居られたそうで、その先生が自分の死に臨み、高弟の糸洲先生を枕頭の呼び、「私は是迄で、力一ぱいに稽古をさせたが、実際の場合と言う事を一寸も考えず、自由と敏活を欠いで居る。今日になって深くさとる処があるから、今度は是非松村について研究して呉れ」と遺言されたそうである。
本部朝基と琉球カラテ 岩井虎伯著 愛隆堂より、P19から一部抜粋
糸洲はどうやら力一杯行っていたようです。
しかも、糸洲が松村の許を出た理由が、糸洲が鈍重であったため、師である松村がおろそかになったから、というなんとも笑えない、切ないものでした。
力いっぱいで、鈍重。
糸洲の唐手を知る為のキーワードですね。
知花の言う「手足を伸ばしてのびのびとやる、自然の動きを強調する、瞬発力を重視する」とは全く違います。
ですが、鍛錬に関しては、知花・糸洲両者の考えは同じようです。
知花のエピソードにもありましたが、足先蹴りで杉板を割り、真竹を握りつぶし、レスリング仕込みの米兵の腕を晴れ上がらせるような鉄の前腕を有するような鍛錬をおこなっていました。
糸洲も同様なエピソードがあり、自宅の庭で毎日巻藁突きの稽古を課していたり、体力強化のため激しい自主トレに取り組み、上腕は三寸ほどの丸太を叩きつけても微動だにせず、弾き飛ばしたとか、鍛え上げた身体は唐手家の突きや蹴りをまともに喰らっても、全てはじき返し無傷だったそうです。
さらに、孟宗竹を片手で握りつぶし、天井の桟を両手で掴んでぶら下がり部屋の端から端へ移動したとか、また、石垣を突いて拳を鍛えたとか。
糸洲は当時まれに見る突き手であったと、本部朝基も記しています。
鈍重であったがために、打撃に耐えうるよう身体を鍛え上げ、相手を威嚇する攻撃力として、尋常でない握力を鍛えていたのかもしれません。言ってみれば、これも一つの防衛手段です。
知花は、師匠の糸洲と同じように身体を鍛え上げたことが分かります。
両者比べると、
- 糸洲は、力は強く、身体は頑強で、当時まれに見る突き手ではありましたが、鈍重であった。
- 知花は、同じく力は強く、身体は鍛えていましたが、型を「手足を伸ばしてのびのびとやる、自然の動きを強調する、瞬発力を重視する」としていた。
動作制御に関するところは、糸洲、知花両者、全くの間逆です。
どうやらここに答えがありそうな気がします。
知花朝信のナイハンチは姑娘歩ではない・・・!?
先ほど紹介した月刊空手道に、知花のナイハンチの分解写真が掲載されています。
この写真をこのブログに掲載しても良いものかどうか、著作権の関係上、何かあると厄介なので止めておきますが、You Tubeに動画がアップされているので、それをここに紹介します。
月刊空手道に掲載されている写真を見てもそうなのですが、この動画を見ても、
歩法が姑娘歩とは言えないと思うのです。
月刊空手道の分解写真を見ても、かなり下肢に力を入れているように見えます。
姑娘歩の影響を受けていたなら、絶対に力は入れず緩んでいるはずです。
ですが、どうみても、力を入れているように見えてしまいます。
ウィキペディアで「ナイハンチ」を調べても、本部朝基が以下のように解説していますので、引用します。
ナイファンチの型で、松村先生と糸洲先生と異なっているところがある。 ナイファンチの中で、足を膝のところまで内側へあげて元の位置へ踏み下ろすところがある。あそこのところで両先生の流儀が異なっているのだ。
松村先生の流儀は、踏みおろすときに、足を軽く平らに足裏を地上におろすのだが、糸洲先生の流儀は、足のおろし方を力を入れて重く、足裏を平らに下ろさず斜めにおろす気持ちで、強く踏みおろす。これは右足のときも左足のときも同じことである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナイファンチより
つまり、足を強くドシンと踏み下ろしている。
知花の動画も明らかにそのようにしていることが分かります。
これでは、ますます姑娘歩ではありません。
なぜ私が姑娘歩にこだわるかと言うと、
当時、中国でかなりはやっていた白鶴拳ですが、那覇手はその影響を受けているといわれており、少なくとも、那覇手の使い手であれば、白鶴拳の影響を受けているので、この姑娘歩は必ずやっているはずだと思っていたわけです。
ですが、そうではなかった。
考えられることとしては、やはり 松村の許を出たあと師事した長濱の「身体を堅める方に専念して、稽古をして居られた 」と言われるところに、なにか原因があるかと思われます。
糸洲と長濱
ここは私の推測を書きます。
糸洲は、松村の許にいたときから、鈍重ではありましたが、巻藁や身体の鍛錬には一生懸命だったというエピソードは、先ほど紹介しました。
糸洲は体重が90kgもあり、そのために鈍重だったどうかわかりませんが、それならば徹底的に身体を鍛えようと考えたのかも知れません。それもまた、一つの理由かもしれません。
ですが、その方向性へかなり傾いていたとすれば、松村がちょっと目を掛けてくれなかった、というのも頷ける話です(もっと痩せろよ・・・とか)。
松村の許を出た後、那覇の長濱の許へ行った理由は定かではありませんが、いろんなところを尋ねた際、たぶん、長濱の考えが一番糸洲にあっていたのだと思います。
本部朝基も、那覇における武人と言うことで、長濱を突き手の名人と称しています。
那覇における名人で、 「身体を堅める方に専念して、稽古をして居られた 」 と言うことであれば、糸洲の考えと同様だと思われ、何か良い稽古ができるのではないかと希望があったかもしれません。
長濱とともに 「身体を堅める方に専念して、稽古をして居られた 」 とすれば、更に磨きが掛かったように、身体は鍛え上げられたでしょう。
同じ考えの下、一緒に研究し、稽古する日々は、とても充実し、楽しい日々だったと思います。
しかも、長濱は年が一つ上、という、同年代の付き合いです。話もしやすく、師弟関係も良好だったと推測します。
長濱は死の間際に、糸洲を枕もとに呼び、「私は是迄で、力一ぱいに稽古をさせたが、実際の場合と言う事を一寸も考えず、自由と敏活を欠いで居る。今日になって深くさとる処があるから、今度は是非松村について研究して呉れ」と遺言するくらいですから、その関係の深さがうかがわれます。
それにしても、長濱と糸洲が研究し、目指したと思われる唐手は、なんだかまるで剛柔流のようです。
もしかしたら、東恩名寛量がその後修得するであろう鶴拳系統の何かに、既にそのとき遭遇していたのかもしれません。
または、剛柔流のような、体中の筋肉を締めまくるという考え方や方向性は、当時の那覇では、何人かの唐手家の間では、既にあったのかもしれません。
つまり、東恩名やさらには宮城長順よりも先に、鶴拳系を知ったか、もしくは体中の筋肉を鍛えまくると言う考え方をもとに、長濱とともに研究し、あのサンチン立ちのようなナイハンチの立ち方を開発したのではないかと、そんな風に私は考えています。
サンチン立ちのような立ち方は、首里手の中にはありません。(厳密に言えば、首里手にもサンチンがあったといわれています)
このサンチン立ちで下肢を締め上げて鍛える、という発想そのものが、首里手には無かった、と思います。
糸洲は「那覇六分首里四分」と言われているくらいですから、那覇で見聞きし、長濱と行動を共にしたその期間が、糸洲ナイハンチの誕生の元になっているというのが私の仮説です。
糸洲がシンギュラリティーを迎える

長濱の死後、松村の許に戻った糸洲は、自らの鈍重さを克服すべく、どういった稽古をすればよいか、思案していたと思われます。
なぜなら、長濱が死ぬ間際に、
「私は是迄で、力一ぱいに稽古をさせたが、実際の場合と言う事を一寸も考えず、自由と敏活を欠いで居る。今日になって深くさとる処があるから、今度は是非松村について研究して呉れ」
という遺言をしていることは、今回の記事で何回も書きました。
また、松村の唐手は、本部朝基著「私の唐手術」に、「稽古の心得」として、以下のように書いていますが、これが参考になります。
松村先生は、(略)中々ゆとりのある武柄で、決して力一方の武士ではなかった。而して常に静中動きを観て運用自在であった。(略)常に其の型の稽古は力の入れ方及び型の運用に意を注いでおられた。
本部朝基と琉球カラテ 岩井虎珀著 愛隆堂 P18,19より
とあり、
運用自在、もっと敏活に運用することを目的として練習していたようです。
長濱から教わり、糸洲も自信のある「身体の頑強さ」を手に入れる唐手の稽古方法と、
松村から、敏活、運用自在の唐手を学ぶこと。
この両者を合わせようとしたとき、糸洲が遂にシンギュラリティー (彼にとっての空手の技術的特異点) を迎えます。
その結果、たどり着いた結論が、
ピンアンの創作であり、ナイハンチの改変の必要性、
と言うところに結実します。
次回は、遂にナイハンチ2.0の全貌です。
とはいっても、100%、私の妄想なのですが・・・。
どうぞお楽しみに。