糸洲のナイハンチは凄かった!?と題してお送りしております第4弾です。
なんだか長いシリーズになってしまいそうです。
時代の境目

糸洲安恒が、松村宗棍の下に入門してから唐手を習い始めたのは、20代の頃と言われています。
そして途中、松村のところを一度出て行き、那覇手の長浜に師事します。長浜の死後、再び松村のところに戻りますが、そのとき35歳過ぎと言われています。
糸洲が生まれたのは1831年ですので、35歳なら1866年ということになります。
この1866年と言えば、とても有名な出来事がありました。
それは、 最後の冊封使の来琉です。
清国より最後の冊封使「趙新」が来琉し、翌年の1867年にその祝賀会が開かれました。
その記録の中に、「武芸十項目」があり、武人を那覇の久米村から選出し、その武術を演武させたという文献が、ここでまた登場します。
それ以前のものとしては、1762年の大島筆記だけです。
1867年の冊封使祝賀会で演武された演目ですが、再び「琉球空手のルーツを探る事業調査研究報告書」から、その第3章「空手のルーツを探るシンポジウム」より以下引用、抜粋します。
島袋全発の論文「打花鼓」中の史料についてである。同史料は 1867 年、尚泰王の冊封を無事終えた翌年、首里、那覇など地区ごとに祝宴が催されたようで、久米村が御茶屋御殿で尚泰王臨席の下、披露した演舞・演劇の番組表である。その中に歌舞音曲と並んで、武術の演目がみえている。以下武術の演目だけ引用すると以下の通りである。
琉球空手のルーツを探る事業調査研究報告書P.71より
籐 牌 真栄里筑親雲上
鉄尺並棒 真栄里筑親雲上/新垣通事
十三歩 新垣通事
棒並唐手 真榮田筑親雲上/新垣筑親雲上
ちしゃうきん 新垣通事親雲上
籐牌並棒 富村筑親雲上/新垣通事親雲上
鉄 尺 真榮田筑親雲上
交 手 真榮田筑親雲上/ 新垣通事親雲上
車 棒 池宮秀才
壱百〇八歩 富村筑親雲上
この元となる情報源ですが、冊封使として来琉した趙新(ちょうしん)が記した『続琉球国志略』(1866年)に書いてあったのではないかと推測しているのですが・・・、間違っていたらごめんなさい。誰か知っている人はいないでしょうか?
さて、この演目録ですが、とても有名ですので知っている方も多いでしょう。
気になるのが、この中で演武されている空手の「型」と思われる名称です。
十三歩、ちしゃうきん、壱百〇八歩、ですが、これは今でも伝わっている、
十三(セーサン)、シソーチン、壱百零八手(スーパーリンペイ)だろうと言われています。
そのまんまの名前ですからね。
しかし、これが今現在伝わっている型と同じであるかどうかは、分かりません。
例えば、セーサンは剛柔流と上地流にありますが、そのどちらも型の動作が違います。
このときにはまだ剛柔流も上地流も無く、那覇で行われていた手(ティー)だったはずで、これらの武術はどんな流派(○○拳とか)だったのかは分かっていません。
中国南派武術の何かの流派だったのか、それとも既に独自発展を遂げ沖縄化していたのか・・・、
ホント、何も資料がありません・・・。
いわゆる中国南派拳法をやっていたと思われるのですが、白鶴拳なのかどうかははっきりしません。
だから、未だに研究が続けられているのでしょうけどね・・・。
まあわからないことはさておき、
この中に出てくる「新垣通事」と「新垣通事親雲上」という名前ですが、「新垣通事」のほうが新垣世璋(1840~1920)だと言われています。
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「本部流のブログ」https://ameblo.jp/motoburyu/entry-12303040607.html
この新垣世璋から東恩名寛量、剛柔流開祖・宮城長順へと伝わりますが、
おおもとの新垣がいったいどういった型を行っていたのか、実際には分かりませんが、
現在伝わっている型(ウンス、ニーセーシー、ソーチン)が参考になりそうです。
サンチン立ちのナイハンチはどんな立ち方?

糸洲は1831年生まれ。
新垣は1840年生まれ。
糸洲が、長浜と那覇・泊を周っていたときに、彼と出会っていた可能性はあるでしょうか。
新垣は、祝賀会に呼ばれ、武術を披露するくらいですから、腕前はかなりのものでしょう。
糸洲は、彼を知っていた可能性がありますし、影響も受けたかもしれません。
さて、いろいろと多角的に見てきましたが、
サンチン立ちの脚の使い方が姑娘歩であるのか、ないのか、を検証してきましたわけですが、
まあ、はっきり言うと、「わからん」と言うことです・・・。
少なくとも、那覇手だったころでは、締め上げて使うことではないように思います。
白鶴拳のように、劉銀山のように、ひょこひょこという歩法の姑娘歩では無いにせよ、
新垣がいた頃の那覇手は、下半身を締め上げていることはないようです。
さて、それでは糸洲のサンチン立ちナイハンチは、脚を緩めて、姑娘歩のようにして使っているのでしょうか。
もともとのナイハンチは、松村系ですから、騎馬立ち(馬歩)です。
その要領ですが、
「上体の姿勢はくずさず、腰に力を入れ、足は乗馬するが如く、両脚の外側より中の方へ、力を締込むような心持ちで踏み張る」
本部朝基と琉球カラテ 岩井虎伯著 愛隆堂 P.22 第三図より引用
ということですから、脚の使い方にそのコツがあるようです。
姑娘歩は、このような使い方ではありませんので、明らかに松村のナイハンチから逸脱するものだと、糸洲は主張しているように思います。
どういった脚使いをしていたのか、
その最終的な判断として、糸洲の後期の弟子である「知花朝信」を取り上げたいと思います。
次回、この記事で歴史的裏づけを取る作業は終了します。
続く。(まだ続くのか・・)