糸洲のナイハンチは凄かった!?(3)

歴史

連載第3回目です。

今回はサンチン立ちについて解説します。

サンチン立ち

サンチン立ちとは、つま先を内向きにし、膝を曲げ、少々腰を落として立つことを言います。

剛柔流や上地流に見られるサンチン立ちは、鶴拳系よりも足の前後の歩幅はかなり狭く、前後どちらのつま先も内向きにし、膝を曲げ落とした状態になっています。

ここからは再び、浦添市のホームページ『琉球空手のルーツを探る事業調査研究報告書』を刊行しましたより、PDF資料を引用します。

この資料は力作ですね。浦添市教育委員会による渾身の調査研究だと思います。分かりやすいので、前回同様、参考資料としました。→ 琉球空手のスーツを探る事業調査研究報告書

比較するのは、剛柔流、上地流、白鶴拳、五祖拳です。

(五祖拳は、白鶴拳を取り入れただけなので、同じものと判断し、私の検証からは外します)

上地流のサンチン立ち

上地流では、全身の力を抜いて、自然にごく軽く立つようにするようです。

http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2015051400127/file_contents/karate-houkokusho.pdf#page=79&zoom=auto,-130,778

ちなみに、上地流の起源は、福建南拳虎尊拳が基本となっている、とあります。

http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2015051400127/file_contents/karate-houkokusho.pdf#page=57&zoom=auto,-130,435

白鶴拳のサンチン立ち

白鶴拳では、股関節が常に緩んでいるように見られる、ということです。

私もいろんな動画等で見る限り、力を入れているようには感じられません。

http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2015051400127/file_contents/karate-houkokusho.pdf#page=83&zoom=auto,-130,802

剛柔流のサンチン立ち

剛柔流では、顎を引き、後頭を立て、鳩尾を落として丹田に力を蓄え、臀部を引き締めるようにして行う、とあります。

http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2015051400127/file_contents/karate-houkokusho.pdf#page=76&zoom=auto,-130,574

つまり、剛柔流だけ、下半身を締め上げ、力を入れているということです。

と言うことは、剛柔流の歩法は姑娘歩ではありません。それとは逆に、一歩一歩しっかり地面に吸い付くようにしています。

上地流、白鶴拳はそのようにしていないようです。

なぜ剛柔流では、このような歩法になったのでしょうか?

剛柔流のサンチンは、宮城長順がルールーコウから学び、その後工夫して現在の形になったようです。

宮城長順の何らかの考えによるものなのでしょう。

剛柔流開祖:宮城長順

【okinawaBBtv】沖縄空手流派企画展 「剛柔流流祖 宮城長順」

宮城長順は、薬種商の家に生まれています。つまり士族や大名家ではありません。

那覇手は、久米村の士族達が行っていた武術でしたので、東恩名寛量が新垣世璋から教わるまでは、いわゆる平民に那覇手が伝わることがなかった、とされています。

那覇手の起こりは、琉球王国に帰化したビン人三十六姓によって、彼らの故郷である福州(福建省)の中国武術(南派拳法)が久米村に伝えられものであるとされています。
そして、この久米村で行われていた拳法は、大名や士族の特権として伝授され、久米村住人の士族以外には絶対に教授しなかったと伝えられているそうです。

本部朝基と琉球カラテ 岩井虎珀著 愛隆堂 P136-138より

また、武士階級が行う武術と、平民が行う武術では、その考え方の根本が違ってくると思います。

武士階級では、刀、棒、槍が戦いでは常識で、徒手空拳で争うことはほぼありません。

現代の軍隊と同様、軍事訓練として、体力づくりや鍛錬目的で唐手に取り組んでいたと思われます。

それに対して平民では、護身の為か、もしくは喧嘩等の戦闘手段として唐手を行うことを考えていたと思われます。(まだ空手という言葉が無く、「手:ティー」だったので唐手としました)

そうなると、力自慢の殴り合いや取っ組み合い、戦争レベルでの戦闘ではないと考えられます。

こういった場合、どちらかと言うと、多少殴られても大丈夫なくらいには体を鍛え、突きの威力を上げる為に筋トレをする、といった感覚ではなかったでしょうか。

現に今も、フルコンタクト系では、剛柔流の型を稽古しているところが多くあります。

刀や槍、棒を想定した場合、いくら体を鍛えても限界があります。鍛えたからと言って、槍で突かれても大丈夫、という人間はいないでしょう。

国家間の戦争では、素手での殴り合いをまず想定していないので、そこまで体を鍛え上げるかどうかは、個人の趣味によるものだと思います。

ですから、剛柔流は宮城長順が作ったので、彼の考えがあって、下半身の筋力マックスで締め上げるものにしたのですから、これが剛柔流のサンチンなのです。

剛柔流は那覇手からの発生ですが、サンチンで足を締め上げる立ち方は、宮城長順が開発した方法であって、他流派のサンチンではそうではなかったということでしょうし、また、剛柔流が発生する前の那覇手では、ほとんどの唐手が軽い足取り、つまり姑娘歩だった可能性があります。

糸洲はそのときどう思ったか?

糸洲が唐手を習い始めたのは、20代の頃、松村宗棍に師事してからと言われています。

そして途中、松村のところを一度出て行き、那覇手の長浜に師事します。長浜の死後、再び松村のところに戻りますが、そのとき35歳過ぎと言われています。

このとき(1866年頃)はまだ、宮城長順は生まれておらず、東恩名寛量も14歳くらいで、唐手も習っていません。つまり、下半身を締め上げるサンチン立ちは、まだこの世に存在しないことになります。

松村が、「亀小型」と揶揄し「頗る危険で、すぐに倒されてしまう」と切り捨てた糸洲ナイハンチのサンチン立ちですが、もし、鶴拳系の姑娘歩だった場合、力の出し方、体の使い方が違いますので、事態は一変します。

ここからは私の憶測になります。

松村のところを出て、長浜と那覇、泊の道場を回っていた頃に、もしかしたら本当の鶴拳系の動きを見たか、習ったのではないでしょうか。

そのときに見た鶴拳の立ち方、歩法に衝撃を受け、その後、松村の下に帰ってからも研究を続けていたのではないでしょうか。

糸洲がこの鶴拳系の姑娘歩を見て、決して力強くないこの立ち方・歩法であるにも係らず、軽快に動きまわり、自由自在に攻撃してくるさまを目の当たりにし、この姑娘歩を取り入れたいと強く思った、ということなのではないでしょうか。

そしてこの立ち方、歩法は、首里手にはありません。

松村のところに戻った後も、長浜と見て周った那覇、泊の唐手(中国武術。もしかしたら鶴拳?)と首里手を研究し続け、姑娘歩を取り入れた何か新しい身体操作方法を会得し、それを型に落とし込んだのではないでしょうか。

その型が、ナイハンチ。

続く