糸洲のナイハンチは凄かった!?(2)

空手 技術

糸洲のナイハンチは凄かった!?と題し、連載でお送りしております。

今回はその第2回目。鶴拳について解説します。

那覇手の源流、鶴拳とは?

まずは鶴拳について、以下に引用します。

白鶴門に伝わる開祖伝説によると、清朝康熙年間(1662年 – 1722年)に生まれた福建少林寺[2]の僧で少林十八羅漢拳の使い手である方慧石(方種とも)の娘、方七娘によって創作されたとされる。方七娘は16歳の折、鶴(白鶴仙人とも)の動きに触発され、父親から習得した少林十八羅漢拳に鶴の形意、姑娘歩と言われる歩法(纏足の女性が歩くような歩法)を合わせて白鶴拳を編み出したといわれる(沖縄に伝わった白鶴拳の古文書「沖縄伝武備志」によれば「三年にして学成る」とある。)。その後方七娘は、白蓮寺を教練所として白鶴拳の普及を始めたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

さて、白鶴拳がいつごろ発生したかですが、上記ウィキペディアによると、清朝康熙年間(1662年 – 1722年)の間、ということになります。

また、別資料として、浦添市のホームページ『琉球空手のルーツを探る事業調査研究報告書』を刊行しましたより、PDF資料がありました。

これはその名の通り、空手のルーツを探るため、浦添市が行った事業です。

かなり詳細な報告書になっています。↓↓

『琉球空手のルーツを探る事業調査研究報告書』

内容のいくつかは、今となってはネットでも調べれば出てくる既知の事で、たぶん知っている方も多いと思いますが、中国側からの調査、証言が裏づけとなっていますので、信憑性が高いと思われます。

王打興(1659 – 1736年)は、永春蓬壷東坑の人である。彼は白鶴拳の創始者である方七娘とその夫の曽四の永春後廟辜厝における初めての弟子である。彼はまた「二十八英俊」(28 人の武術の才に長けた人)のなかで 2 番目に列せられる人物であるばかりか、「前五虎」と尊称される中の一人であり、永春白鶴拳の三代目の継承者の中で傑出した人物でもある。彼はまさにその流派の継承者であり、永春白鶴拳の発展と、伝播の歴史の中で、重要な貢献をなし、崇拝されている人物である。

『琉球空手のルーツを探る事業調査研究報告書』

これによると、白鶴拳の創始者の最初の弟子が王打興という人だとありますので、少なくとも、王が亡くなった1736年以前には、既に白鶴拳が存在していた、と言うことになります。

推測してみますと、

たとえば王打興が15歳で入門したと仮定した場合、1674年となります。

このとき、方七娘が25歳くらいだったとして、彼女が白鶴拳を編み出したのが16歳以降ですから、約10年前の1664年あたりに白鶴拳が出来たと思われます。

上記引用の中に、王打興は、

”「二十八英俊」(28 人の武術の才に長けた人)のなかで 2 番目に列せられる人物であるばかりか、「前五虎」と尊称される中の一人であり、永春白鶴拳の三代目の継承者の中で傑出した人物でもある。彼はまさにその流派の継承者であり、永春白鶴拳の発展と、伝播の歴史の中で、重要な貢献をなし、崇拝されている人物である。”

とあります。

つまり、白鶴拳を広く福建省全体に広めた最初の人、と言う可能性が高いです。

そう考えると、彼がなくなった1736年には、既に多くの門人が育っていたことになります。

1736年と言えば、日本で最初に琉球空手が確認された1762年の大島筆記よりも以前、と言うことですし、

今回のテーマである「糸洲ナイハンチ2.0」の糸洲安恒が生まれたのは、1831年です。

正確に西暦何年か分かりませんが、糸洲が生まれる以前には、白鶴拳が何らかの形で沖縄に入ってきた可能性は十分に考えられます。

 

鶴拳の達人・劉銀山

白鶴拳と写真とは全く関係ありませんが・・。

鶴拳でもっとも有名な武術家は、食鶴拳の劉故・劉銀山親子だと思います。

その昔、劉銀山の書籍、ビデオが出ていたので、知っている人もいるかと思います。

・・・っていうか、私もそれくらいしか知らないのですが・・・。

食鶴拳ではなく、白鶴拳とも言われています。

両方やっていたのか、全部の鶴拳系統をやっていたのか、この辺は知りません。

ちなみに、鶴拳には、「飛鶴拳、鳴鶴拳、食鶴拳、宿鶴拳、縦鶴拳」の5種類があります。

ようは、鶴が、飛んで、鳴いて、食べて、休む、って感じでしょうか。

ネーミングが面白いですね。

私が以前見た劉銀山の食鶴拳のビデオでは、なんだかひょこひょこという足取りで、套路も、踊りのようで、武術性が全く感じられず、これがうわさの食鶴拳?って思っていました。

ですが、その足取りこそ、姑娘歩(クーニャンホ)といって、鶴拳系独特の歩法なのです。

その動作にまったく居つきがなく、俊敏軽快だということです。

さて、先ほど紹介したウィキペディア引用文中に、

”父親から習得した少林十八羅漢拳に鶴の形意、姑娘歩と言われる歩法(纏足の女性が歩くような歩法)を合わせて白鶴拳を編み出したといわれる(沖縄に伝わった白鶴拳の古文書「沖縄伝武備志」によれば「三年にして学成る」とある。)”

とあり、

白鶴拳とは、

少林十八羅漢拳+鶴の形意+姑娘歩=白鶴拳、

ということになります。

これを考えると、姑娘歩に結構大きな意味があるように思えてきます。

この姑娘歩とは、纏足をした女性からその名の由来が来ています。

詳しくは「纏足」で検索して下さい。ちょっと閲覧注意な写真がたくさん出てきます。

さて、このように「纏足」の女性は、見ての通りの足ですから、かなり歩きづらかったようなのです。

そして、劉銀山のビデオでも、やはりひょこひょことした足取りで、全く武術とは思えない、まるで踊りのようだったと記憶しています。

鶴拳系では、わざわざ姑娘歩(クーニャンホ)を取り入れているのですから、しっかりとした歩みとか、大地に根を下ろすようなとか、そういった足取りではなく、ひょこひょこと、悪く言えば、フラフラとした、そういった足取りで行うのが本来の歩法だと思われます。

ですから、下半身を筋力マックスで締め上げると言うのは、白鶴拳の場合、ちょっと違うと思います。

今現在、You tubeで見られる鶴拳系の動画を見ると(つま先の向きが内向きでないところもあったりしますが)、おおよそどの鶴拳流派のサンチンも、剛柔流のように、下半身を締め上げるようにはしていません。

那覇手は、福州南拳の影響を受けていると言われ、東恩名寛量は鳴鶴拳、剛柔流開祖・宮城長順は白鶴拳を学んだ、という説もあります。(ちなみに上地流は虎尊拳であるとしています)↓↓

沖縄の剛柔流は幾度も中国へのルーツを訪ねる旅を行い、その結果、1989 年9 月に福州市で東恩納寛量の開宗の師を探し当てた。1852 年に長楽県占郷岱辺村に生れた謝崇祥(如如)の跡地を尋ね当て確認し、そして福建体育センターにその「顕彰碑」を建立し記念とした。そのときに伝承されたのは鶴拳で、流派は鳴鶴拳に属している。 それ以前に、上地流も福建省武術協会と協力して調査を行った。その結果、1897 年、上地完文氏が福州南嶼柴日村の虎尊拳の師である周子和の門下に於いて武芸を習い、帰国後に上地流空手道を創設したことを明らかにした。よって、上地流の源流と系譜ははっきりしている。この両種の拳は、みな福建南少林拳の系列であり、鶴拳は泉州府永春県で生まれている。

『琉球空手のルーツを探る事業調査研究報告書』

東恩名、宮城両名がそれぞれ鶴拳系を学んでいるにも係らず、なぜ劉銀山のような鶴拳の歩法が見られないのでしょうか。

また、ニコニコ動画には、戦前の剛柔流の鍛錬をしている動画がありました。

沖縄空手 第二次世界大戦前の剛柔流
沖縄空手 第二次世界大戦前の剛柔流 鍛錬、萌え。  /  外間哲弘先生の著作によると、動画中で出てくる剛柔流の鍛錬具「担」を演武...

若き日の許田重発が映っています。

素晴らしい動作が見られます。

ちなみに、許田重発は東恩流(とうおんりゅう)という流派を立ち上げています。

東恩流のほうが、東恩名寛量の型をそのまま伝えていると言われています。

動きが滑らかで柔らかいですが、力強さがみなぎっています。

また上地流は、上地完英のYou Tube動画を見ると、割と軽い足取りをしているように見えます。

時折、足の親指を上に上げているのですが、これだと剛柔流とは足の使い方が違いますね。

まあ、上地流は虎尊拳ということで、鶴拳系ではないですが、一応参考までに。

 

ここまでのまとめ 

空手の記事に関するまとめ

それにしても、立ち方だけでなく、伝承系統もなんだかはっきりと分からないですね。

それもそのはず、沖縄の空手家達や、沖縄の自治体が、かなり昔から中国へ何度も調査に行っているのですが、詳しくは分からないらしいです。

ここまでで分かったことは、

  • 白鶴拳は、最初の弟子である王打興が、1736年に亡くなるまでに、福建省全体に白鶴拳を広めた可能性がかなり高いということ。
  • 那覇手は福州南拳の影響を強く受け、東恩名寛量は鳴鶴拳、剛柔流開祖・宮城長順は白鶴拳を学んだらしいということ。
  • 鶴拳系の影響を受けている割には、姑娘歩が見られないこと。

です。

う~~ん・・・・、いまいち結論が出ないです。

まあ、次は気を取り直して、サンチンの立ち方、サンチン立ちについて詳しく見て行きましょう。

次回に続く。