本部御殿手と武田惣角について、私の仮説。

沖縄の家 歴史

この記事では、沖縄空手の一流派である「本部御殿手」と大東流合気柔術は同じものであり、また、大東流に伝わる「合気拳法」と沖縄空手は同じものである、ということを書いていきます。

いろいろな本や記事内容をあわせて、さらに私の創作も入っています。

一つの仮説としてお楽しみいただけたらと思います。

 

琉球空手・本部御殿手とは

沖縄のシーサー
沖縄のシーサー。琉球空手っぽい?写真ですね。

琉球空手の中でも、特に異彩を放つ流派に、本部御殿手(もとぶうどぅんてぃ)というものがあります。

本部御殿とは、琉球王族で大名です。沖縄の中でも、かなり家柄が高いです。

そこで伝えられていた手(てぃ)ということで、本部御殿手と言います。

手とは、琉球に古くから伝わる武術のことで、空手(唐手)とは違うとされています。

なぜ違うかと言えば、空手は中国武術が沖縄に伝わったもので、手は沖縄に昔からあるもの、という考えがあるからです。

その真偽はさておき、今回はその本部御殿手に関することを書きます。

 

□本部御殿手:取手(とぅりてぃ)

本部御殿手と言えば、取手と言って、他の琉球空手とは全く違い、日本の柔術的な技が存在します。

もちろん他の琉球空手と同様、打撃や武器術はありますが、この取手が他の空手にはほとんど見られず、本部御殿手だけに特徴的な技で、それが大東流合気柔術にとても似ています。

手の指を捕り、手首関節を極める技がYou tubeで見られます。

この技法ですが、いつから伝承されてきたのか、実は定かではありません。

初めから本部御殿手にあったのか、途中で誰かが創始したのか、もしそうだとしたら、それはいつで誰なのか、資料も伝承もありません。

本部御殿手で有名な武術家は、本部御殿手古武術の第11代宗家である本部朝勇氏と、

その弟子の12代宗家上原清吉氏です。

この上原清吉氏から、本部御殿手は世に知られることになりました。

それまでは一子相伝、門外不出ということで、技どころか、その存在すら知られることはありませんでした。

有名な話では、本部朝勇氏の弟、本部朝基氏は、兄の朝勇が本部御殿手なる武術を習得していることは、全く知らなかった、と言うことです。兄弟間ですら知らされないのですから、かなり徹底しています。

さて、この本部御殿手が大東流合気柔術に似ている、というところですが、その大東流合気柔術で有名な武術家に、武田惣角がいます。

武田 惣角(たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) – 昭和18年(1943年)4月25日)は、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者。
惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。
13歳の時、父を説得して上京し、父の友人であった直心影流剣術の榊原鍵吉の内弟子になった。東京府内の各剣術道場で他流試合を重ね、剣術の他、棒術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、弓術なども学んだ。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この武田惣角は、20歳前後で、武術の武者修行で沖縄に渡ったと言われています。

「武田惣角と大東流合気柔術 改訂版 どう出版編集部(編集)」という本にはこう書かれています。

1877年9月、西南戦争の後、惣角は武者修行を続けるために九州へと旅立った。(中略)惣角は長崎県を根拠に当時人気のあった軽業一座に加わった。(中略)軽業一座と共に各地を興行巡回して熊本県にたどりついた惣角は、他の一座にいた沖縄空手の名手の離れ技を目にしたのである。(中略)惣角が九州、その後沖縄に来た目的の一つは、その目で沖縄手、いわゆる空手を見るためであった。軽業一座と別れた後、惣角は九州と沖縄諸島をまわり、空手の達人を求めて試合をして歩いた。(中略)1879年、沖縄諸島巡回の後、惣角は九州に戻った。

「武田惣角と大東流合気柔術 改訂版 どう出版編集部(編集)」 より抜粋。

とあります。

この沖縄渡航については、懐疑的な意見もあり、真相は分かりませんが、今回はその議論はせず、この本の内容に従い、惣角は沖縄に渡った、ということで記事を進めていきます。

なぜなら、それを裏付けるような話を聞いたことがあるからです。

これは知り合いからの又聞きになりますので、その点はご容赦ください。

武田惣角から直接習っていたと言う方がいらっしゃって(故人)、その方の話です。

武田惣角は沖縄で空手家と対戦し、二段蹴りを喰らってしまったと言うことです。

日本の武術には二段蹴りは存在せず、初めてみた武田惣角は大変驚き、また感銘を受けたようです。

この話が本当だとすれば、惣角は沖縄渡航し、そこで誰かと戦った事実があった、と言うことになります。

もしかしたら、そこでお互いの技を交換教授をしたとしてもおかしくはありません。

まあ、とにかく、武田惣角は沖縄へ渡った、という説は、かなり信憑性があると私自身は思っています。

さてそうなると、ようやくここで沖縄空手と大東流が出会うことになります。

□惣角は誰と戦ったのか。

気になるのは、武田惣角がいったい誰と戦ったのか、についてです。

先ほど紹介した本「武田惣角と大東流合気柔術 改訂版 どう出版編集部(編集)」によると、

1877年9月に九州へと旅立ち、九州と沖縄諸島をまわり、空手の達人を求めて試合をして歩き、1879年、沖縄諸島巡回の後、惣角は九州に戻った。とあります。

つまり、1877年9月~1879年まで、沖縄にいた可能性があると言うことです。

この沖縄で戦った相手ですが、私はあの本部朝勇ではないかと思っています。

いや、本部朝勇であって欲しいのですが・・・、どうでしょうか?

本部朝勇は、本部御殿手古武術の第11代宗家です。

1857年生まれで、武田惣角は1859年11月4日(安政6年10月10日)生まれ。

年が2歳しか違いません。とても近いです。

武田惣角が沖縄へ渡ったと言われているのは、1877年~1879年の間。

そのとき惣角18歳~20歳。

朝勇20歳~22歳です。

年齢的にもいい感じです。お互い、血気盛んな若者です。

特に、武田惣角は、試合相手を求めて歩きまわっていたのですから、出会えば一触即発の状態だったかもしれません。

只者ではない雰囲気の両者だったでしょうから、惣角が仕掛けてくれば、朝勇も応じるような可能性があります。

朝勇について少し引用します。

本部 朝勇(もとぶ ちょうゆう、1857年(安政4年) – 1928年(昭和3年))は、琉球王国末期に生まれた琉球王族であり、本部御殿手古武術の第11代宗家である。
廃藩置県頃には、すでに本部朝勇は同門の屋部憲通とともに、若手の唐手家としてその武名は広く知られ「本部の足蹴り」とまで異名ととるようになる。屋部とともに、泊手の大家・松茂良興作宅へ出かけ、松茂良の力量を試した逸話が伝えられている。また、弟の本部朝基が那覇にあった遊郭・辻町に夜な夜な出かけて、「掛け試し(一種の野試合)」に励んだのも、当初、組手(変手)で兄・朝勇にかなわなかったのが理由とされる。弟の朝基が剛拳である唐手の雄として後年名を成したのに対して、朝勇は当時の著名な諸大家をその邸宅に招いては、唐手のほかに、取手術、剣術、馬術など、幅広い武術を網羅的に修行していた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これを見ると、朝勇は「本部の足蹴り」と異名をとっていた、とあります。

惣角は沖縄空手の達人から二段蹴りを喰らった、と又聞きですが、私は聞いています。

そうです。つまり、「本部の足蹴り」である朝勇の二段蹴りを、惣角は喰らっていた可能性が非常に高いとは思えないでしょうか(そう信じたい)。

また、朝勇が「本部の足蹴り」と異名をとっていた時代は、廃藩置県頃、とウィキペディアにあります。

沖縄の廃藩置県は、1879年3月27日。

これは、惣角が沖縄へ渡っていた年代とも一致します。

異名をとるくらいの達人として琉球で知れ渡っていた朝勇と、わざわざ空手の達人と戦いたいがために沖縄まで渡った惣角です。

なんだか、現代における那須○天○と○尊のようですね。

「屋部とともに、泊手の大家・松茂良興作宅へ出かけ、松茂良の力量を試した逸話が伝えられている。」

ともありましたので、この松茂良興作宅へ出掛けた帰りにでも、出会って欲しいと個人的に思います。

松茂良興作は、強かったでしょうから、さすがの朝勇もかなり手こずったか、もしくは返り討ちとまでは行かなくても、痛み別け的な勝ち負けなしの試合になったのではないでしょうか。

一緒に行った同門の屋部憲通(やぶ けんつう、1866年 – 1937年)ですが、この松茂良にも師事していることから、この戦いを見て弟子入りしたのかもしれません。と言うことは、屋部が習いたいと思うほどに、松茂良は凄く強かったのだと思います。

松茂良のところでの戦いも終わり、朝勇は、松茂良の家を出た後、戦いの余韻も冷めぬ内に、武田惣角と道端で偶然出会い、ただならぬ気配を感じた惣角が先に仕掛け、それに朝勇が応じて、戦いが始まった、なんてことになったら面白いなあ、と、この記事を書きながら、一人妄想して楽しんでしまいました。

戦った後、お互いの強さを賞賛し、交流した、と思いたいです。

朝勇にしてみれば、松茂良も強かったが、こいつも強いし面白い技を使う。今日は楽しい日だなあ、とか思ったかもしれません。

惣角は、こんな凄いヤツと出会えて、沖縄に来て本当に良かった、空手は面白いからやってみたいなあ、とか思ったかもしれません。

 

蛇足ですが、

お互い、言葉はほとんど通じなかったかもしれません。

武田惣角は東北なまり、本部朝勇は沖縄の方言ですから。

現在でも、沖縄の70歳以上の世代の方が、お互いに話す言葉は、横で聞いていても、何を言っているか全く分かりません。

琉球は薩摩藩の支配下でしたから、一応鹿児島弁は通じたかも知れません。

お互い、なんとか分かる範囲内での日本語で対応したのでしょう。

 

大東流の合気拳法とは

大東流合気柔術。これは合気道。
合気道っぽい写真。

大東流には、合気拳法という打撃の技があります。

見れば分かりますが、ほとんど空手です。少なくとも私には、空手としか思えません。

惣角が沖縄へ渡ったのであれば、仮に教わったとしても、最長2年弱ありますので、惣角だったらいくつか型や用法を覚えて、自分のものにするくらいは出来たと思います。

私は、惣角が朝勇から交換教授として教わり、それを合気拳法と名づけたのではないか、と思っています。

ちなみに、「空手」という名称ですが、明治38年(1905年)糸洲安恒によって、唐手(トゥーディー)から「からて」に変更されました。

更に「唐手」から「空手」になった過程については以下に引用します。

1929年(昭和4年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「空」の概念から唐手を空手に改めると発表したのをきっかけに、本土では空手表記が急速に広まった。さらに他の武道と同じように「道」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。沖縄でも1936年(昭和11年)10月25日、那覇で「空手大家の座談会」(琉球新報主催)が開催され、唐手から空手へ改称することが決議された。このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ちなみに空手が日本に入ってきたのは、本格的に広まってきたのは、船越義珍や本部朝基達が日本へ渡ってきた大正時代以降です。たとえ空手が1900年くらいから日本に入ってきたとしても、惣角が沖縄から帰ったのが1879年ですから、20年以上前です。

日本本土では、まだ空手は入っていない時代だったので、惣角は、自分の武術として、または秘伝として伝承しようとしたことが考えられます。

出来れば秘密にしたいでしょうね。

私が惣角だったら、日本では誰も知らない武術ですから、秘伝として、教えないでしょうね。

 

まとめ

沖縄の風景
Photo by Hayato Shin on Unsplash

沖縄空手の一流派である「本部御殿手」と大東流合気柔術は同じものであり、また、大東流に伝わる「合気拳法」と沖縄空手は同じものである、ということを書きました。

読んでも分かるとおり、半分は歴史的事実で、半分は私の妄想・創作です。

資料として読むというよりは、仮説として、楽しんでいただければ幸いです。